2015年3月15日日曜日

3/11 represent


「一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的な権利をもったものなのである。私たちの状況感覚そのものが、今日ではカメラの介入によって明瞭になっている」


と「反解釈」という膨大な「解釈」の本を書いたスーザンソンタグの写真論をその稽古で思い出したのは、その日がART ZONEという中京区にある建物にて稽古が行われ、その真っ白の壁に等間隔で写真が飾られていたからなのかもしれないし、その日の稽古で行われたことが、被写体を思わせるようなノーラとそれを眺めるパパラッチのような距離感で、見る、ことが強調されているけれど、その、見ている目を、こちらからは見ることができない、というそれは、雑誌に掲載された生活感のないファッション誌の写真は見ることができても、それを捉えたカメラは見たことがないこと似ていたりします。


ソンタグは、写真について、それが現実におきた「ひとつの事件」で、その現実ありのままの事件に遭遇した結果なのではなく、「つねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的な権利をもったものなのである」というのですが、それはつまり、この写真がもしかしたらイプセンの人形の家の稽古写真ではないかもしれないし、というか、この写真からわかることというのはせいぜい、四人の人がいて何かを読んでいる、といった程度の事しかわからないものの、実際の部屋の中にはもっとたくさんの人がいたのにも関わらず、この写真の撮り手は、それらのほかの人を「無視」し、2時間以上続けていたはずの稽古の中でこの瞬間以外の時間を「無視」し、この写真の上部に写る黒い天井と、床と、奥の壁以外の、ほかの3方向それぞれの壁を「無視」することができるカメラ=見つめる機械、というのは、四方の壁と天井と床の六面の板のうち、その3枚も無視することができるくらいには現実を代理(represent)して、現実の出来事を再現(represent)するわけではありません。





イプセンの人形の家を語るとき、例えば簡単にお金の話ね、とか、女の悲劇ね、とか、演劇の古典ね、とか、フェミニズムね、などなど、他にもたくさん読まれるべきはずの要素を持っている人形の家のディティールを「無視」しながら、その戯曲のテーマに「干渉」し、常套句によって「侵したり」する事で人はその作品を簡単な言葉で表現(represent)あるいは説明(represent)し、物知りを演じ(represent)たりするのですが、それと似たやり方で写真は撮られている、というか、写真に撮られた出来事を「見る」ことはテキストなどを「読む」ことに相当(represent)し、そこにある事=言という二つのコトを「侵し」、「無視し」、「干渉」せざるを得ないのかもしれませんが、このクラスで読まれている人形の家は、このクラス特有の読み方、捉え方で、今までに世界各国で何度も再演(represent)されたであろうこの「人形の家」の上演(represent)を目指しています。





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